高等教育に税金を投入することは、格差の拡大につながらないか?

asahi.com:国立大授業料、私大並みに 財務省、5200億円捻出案 - 社会 はてな界隈で猛批判を浴びているようです。

ですが、asahi.com の記事の


「義務教育ではないので、一般的な教育自体のコストを(税金で)補填(ほてん)することには慎重であるべきだ」とし、「高等教育の機会均等は、貸与奨学金での対応が適当」
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私は、これには賛成したいです。
高等教育を受けなかった人は所得が(平均すると)低く、高等教育を受けた人は所得が(平均すると)高いのは事実です。税金は高等教育を受けない人も払っているので、これを高等教育に投じるのは、「逆進性」を産むことになると思います。

「大学に進学できないアタマなのはお前が悪いんだから、アタマのいい人のために大学教育に金を出すのは当然」ということであれば、これこそ誤った自己責任論ではないでしょうか?貸与奨学金での対応というのは、受益者負担の原則からいって正しい方向性だと思います。
また、所得はその人の生み出す付加価値を反映する(*1)はずです。教育に投じたコストを上回る付加価値(=所得)をその人が将来産み出せないのであれば、社会全体の利得を考えたとき教育はしないほうがいいということになります。ですから、教育のコストを受益者が負担することになれば、社会全体の利得と個人の利得が一致する(*2)ことになります。いわゆる底辺大学では、高卒より求人倍率が低いというのは普通にある話(*3)ですね。そんな大学は本当に社会に必要なのでしょうか? 市場の原理を導入することにより、過剰な大学の乱立を淘汰する必要はあると私は思います。個人的には、現在の日本の大学進学率は高すぎると思います。

税金を投入すべきところは、「市場の失敗」がある部分、つまり、フリーライドが可能である「基礎研究」だと思います。基礎研究に投じる資金はもっと増やすべきと思います。優秀な研究者がつくポジションがあることは非常に重要です。「金にならない」研究をしている研究者にも、ポジションと研究費、そして個人所得を確保して、市場の失敗をカバーする必要があると思います。

ですから、asahi.com の記事の


大学設置基準を超える教員費を削ることで約2500億円の財源を確保
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の部分には私は反対です。




(*1)ここには、市場が正しく機能していれば、の前提があります。
(*2)ここには、人間が平均して経済的に合理的な行動をとるという前提があります。実際は、例え生涯の期待利得が+だとしても、莫大なローンを一時的に背負うことに抵抗がある人が多い(私も学部と院で400万円育英会奨学金を借りたので、この気持ちはわかります)ので、何らかの工夫が必要でしょうね。
(*3)公務員の高卒職に大卒が経歴を隠して応募し採用され、ばれてクビとかいう本末転倒で笑えない話もありましたね。