人権は「普遍的」か?


では、女性器切除の場合は、andalushiaさんのおっしゃるように、身体の保全と文化的アイデンティティーの尊重という二つの人権の衝突と考えてよいでしょうか?私は衝突とは考えません。
(中略)
ある特定の文化・慣習には適用されない人権ならば、それは普遍的な人権とは呼べなくなります。

私はその意見には賛成しません。
憲法学では、「比較衡量」という言葉がよく使われます。そもそも人権は制限され得るという考え方です。


 「比較衡量論とは、具体的事件において対立する諸利益を衡量するものであり、人権の限界を明確にするための憲法解釈に不可欠な手続きであると同時に、違憲審査の基準として論じられる(芦辺・憲法学・208頁は、これらを「憲法解釈の方法としての比較衡量論」と「違憲審査基準としての比較衡量論」に区別するが、一般には、後者の意味で用いられることが多い)。違憲審査基準としての比較衡量論は、具体的な事件において、人権の制限によって得られる利益と、人権の制限によって失われる利益(あるいは人権を制限しない場合に維持される利益)とを比較衡量し、前者の方が後者より大きい場合には制限を合憲とし、後者の方が前者より大きい場合には制限を違憲とする判断方法である(野中他・憲法・227頁以下〔中村執筆〕参照)。

『女性器切除には反対だけど、男性割礼(包皮の一部切除)なら許容範囲かな。』
とか、
『死刑には反対だけど、自由刑(懲役・禁固刑)までなくすのはさすがにどうかな。』
とか思いませんか?
そう思うのであれば、それはもう立派に人権を比較衡量しているということです。

私も個人的には女性器切除には反対ですが、それはあくまで衝突する人権を比較衡量し、身体の保全が優先されるべきと価値判断しているからです。「比較衡量なんかそもそも存在しないんだ! してはいけないんだ!」と主張するのは、判断からの「逃げ」であると私は思います。